『帝国主義と闘った14人の朝鮮フェミニスト 独立運動を描きなおす』(尹画家:画、金伊京:著、宋連玉・金美恵:訳)の翻訳者である宋連玉さんのあとがきを、謝辞を除いて全文を公開します。
※太字下線部分は書籍において訂正がございます。末尾に記載しておりますのでご覧ください。
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1975年秋に韓国で在日韓国人留学生スパイ事件なるものがあった。韓国に行って日が浅く、ろくに言葉も話せない女子学生から、経済大国・日本から来たというだけで妬みを買ってスパイにでっち上げられた男子学生まで、次々と韓国情報部〔KCIA〕や軍保安司令部〔KCIC〕に連行されていった。真冬を思わせる寒風吹きすさぶ秋だった。
留学して5年目の私も例外ではなく「任意同行」という形式で情報部に連行された。1週間を超える取り調べを受けたが、恐怖心で時間の感覚はマヒしていた。取り調べの内容はもっぱら日本での交友関係だったが、初めからシナリオができていたのか私は西大門刑務所に送られずにすんだ。しかし留学先の恩師や友人たちに迷惑がかかることを懸念、学業を中断し、その後16年間韓国の土を踏むことはなかった。国家権力の恐ろしさ、韓国社会全体が監獄だと実感したこともあったが、私たち在日朝鮮人が南北分断の政治的いけにえになることを拒みたかったためである。
政治犯にされた人びとに比べると私の体験などはささいなものだろうが、独立運動で獄に繋がれた女性たちに接続しうる身体化された記憶である。
情報機関での取り調べの最終段階で要求されたのは、私の信奉する思想を書くことだった。私は、民衆を主体にした独立朝鮮のヴィジョンを示した申采浩(シン・チェホ)の思想について知る限り書いた。それを読んだ情報部員は角棒を振りかざしながら「純粋な学徒の意見として一度は大目にみてやる」と私を睨みつけた。しかしそのときは申采浩の思想を一般教養程度に知るだけで、家族関係、とくに伴侶についての知識は皆無だった。息子の秀凡がまだ公に身元を明かせずひっそりと暮らしていたこともあろう。
本書は、尹錫男さんの、植民地主義に抗った女性たちに対するコンパッションから生まれたものである。韓国は1997年のアジア通貨危機の際に経済破綻をきたし、IMFからの支援を受けざるを得なくなった。IMFへの債務を返済するまでは事実上韓国は経済主権を失った状態にあり、IMFの構造調整プログラムのもとで、極度に新自由主義的な経済・社会的制度の改革を強いられた。このような状況を反映してか、女性史研究においても民族解放のために闘った女性たちよりも、性の平等を訴えた女性たちに照明が当てられた。マクロな構造よりミクロな断面に目が向けられたのである。1999年に羅蕙錫(ナ・ヘソク)(*1)記念事業会が結成される一方で、金マリアは後景に退いていった。しかし金マリアの民族主義とは民族解放を目標に掲げた反帝国主義思想であり、その隊列に参与する女性は植民地権力の究極の暴力である性暴力にもひるまない覚悟が求められる。それが性差別・性暴力を土台にする国家に闘いを挑むことなのである。
「遅れてきた」フェミニズム美術家の尹錫男さんが選んだのは金マリアであり、彼女を筆頭に独立運動を闘った女性群から朝鮮のフェミニストを蘇生させようとしたのが本書である。
前述のように、私は翻訳するにあたって、申采浩の伴侶・朴慈恵(パク・ジャヘ)について知るところとなった。朴慈恵は厳しい環境にあっても「エージェンシー」を発揮し、経済的に自立した生き方をめざし、政治的にも民族解放運動に参与する道を選択した。それゆえに帝国日本に「キャリア・ウーマン」としての人生も幸せな家庭の団らんも奪われ、餓死と背中合わせの生活苦にもがいた。
私は、2018年10月に、申采浩が獄死し、安重根(アン・ジュングン)が処刑された旅順刑務所〔現在は旅順日露監獄旧跡地博物館〕を訪れたことがある。その場に向かうために、申采浩の危篤を知らされた妻と息子はソウルから旅順へと急いで旅立った。交通の不便な時代の目的地に到着するまでの旅路の長さ、やっとの思いで辿りついても十分な面会もできなかったうえに、刑務所は面会時間を口実に申采浩の臨終に立ち会うことを許さなかった。朴慈恵の悲憤慷慨を思うと涙せずには読み進められなかった。本を読んで泣くなど何十年ぶりのことだろうか。
本書を通じて植民地主義に抗した女性たちの人生を詳しく知るだけでなく、女性たちの生き方に大きなインパクトを与えた三・一独立運動の意義についても再考させられた。金マリア、鄭靖和(チョン・ジョンファ)、朴慈恵、丁七星(チョン・チルソン)、南慈賢(ナム・ジャヒョン)、安敬信(アン・ギョンシン)、権基玉(クォン・キオク)、李華林(イ・ファリム)はその歴史の渦中にいたし、幼かった朴鎮洪(パク・ジンホン)、朴次貞(パク・チャジョン)、金命時(キム・ミョンシ)たちも周りの大人から幾度も伝え聞かされていただろう。というのも私にとっても三・一運動は遠い昔話や教科書に出てくる数行の記述ではなく、ごく身近な歴史なのである。祖母〔慶尚北道、仁同張氏〕の弟が三・一運動に参加し、逮捕され警察で拷問を受けたが、その後遺症で終生苦しんだことを父から繰り返し聞かされていた。また遠縁のおばあさんが三・一運動に参加しなかった夫を意気地のない男だと軽んじる場面も何度か見ている。
2016年、朴槿恵(パク・クネ)大統領を弾劾に追い込んだ「ろうそく革命」を想起すれば、三・一運動のインパクトの大きさもいくらかは想像できよう。その三・一運動の高揚感が去った後、女性たちは独立を勝ち取れなかった反省から、紆余曲折の果てに1927年に統一戦線体・槿友会を結成する。朝鮮の女性リーダーたちが集結し、性差別的な法の改正、結婚制度改革、人身売買と公娼制の廃止、女性労働者の母性保護と賃金差別反対など、幅広い階層の女性が抱える問題を綱領に掲げ、解放への道を模索した。植民地朝鮮における女性解放は、「帝国のフェミニズム」ではない第三世界の前人未到の道を拓かなければならなかった。
メンバーの多くは、自分たちが受けている植民地近代教育、すなわち低廉な労働力として搾取しようとする皇民化教育の本質を見抜いていた。夭折した女性リーダーの朴元熙(パク・ウォニ)は女子教育が「女性の商品化・道具化」の良妻賢母主義教育だと看破し、痛烈に批判した〔「朝鮮女子教育の現状と根本精神」『東亜日報』1927年7月8日付〕。
しかしその皇民化教育にすら与れない朝鮮女性は全体の90%以上にも及んだ。大部分の朝鮮女性が近代教育の外堀に置かれたのは、帝国日本の差別政策が主要因であるが、植民地権力の魂胆を家父長たちが警戒したこと、社会に開眼して民族運動に参与することが厳しい人生に直結することを、家父長たちが憂慮したことも背景に複雑に絡んでいる。朴次貞は中国に向かう船中で人身売買の被害女性たちを目撃し、心を痛めているが、教育を受けた女性の比率が少ないほど、朴次貞のような女性が社会的責務・使命感を強く意識した面も否めない。
このように近代教育を受けた女性も、かろうじて初等教育を受けて工場労働者になった女性も、工場にすら就職できずに騙されて「慰安婦」にされた女性たちも、一様に植民地主義のもとで過酷な人生を歩まなければならなかった。
槿友会に話を戻すと、会員たちは権力の弾圧もはね返し、果敢に闘うが、1930年代になると幹部の拘束が度重なり、会の存続は難しくなる。闘いの場を朝鮮の外に移すか、地下に潜るかの選択を迫られるが、片時も気を許せない緊張した時間の連続にあっても、女性たちは人を愛し、出産し、つかの間の家族を形成し、採取した山菜で同志の食卓を飾ることもあった。
想像を絶する時間を生き延びて、1945年に民族解放を喜んだ女性たちは、多くが槿友会の後身ともいえる朝鮮婦女総同盟に集結し、槿友会での未完の課題を継承しようとした。しかし植民地主義は1945年で終焉したのではなく、冷戦下の南北分断と朝鮮戦争が女性たちの行く手を阻んだ。朴鎮洪、金命時、丁七星のように冷戦下の独裁政治に粛清され、殺された女性たちも少なくない。
一方、植民地期にお茶の水女子高等師範学校や奈良女子高等師範学校といった、日本女性にとっても狭き門をくぐり、エリート女性として君臨した女性もいる。しかし彼女たちには侵略戦争に協力する皇国臣民政策の広告塔としての役割が求められた。「民族主義」が大義名分になった解放後の朝鮮で、彼女たちは前歴を隠し、自己弁明し、屈折した心理を抱えて生きたが、反共独裁政権のもとで延命し、韓国の女性界の指導者となった。こうして韓国の女性運動は1987年の民主化宣言まで「99%のフェミニズム」とは無縁の路線を歩んできたのである。
反共を国是としていた韓国は、1990年以降からソ連、中国と相次いで国交を樹立したが、いまだに朝鮮半島の北、朝鮮民主主義人民共和国とは自由に往来できず、離散家族の消息も不明なままだ。
植民地主義に抗するとは、人権が守られ、安心して暮らせる社会づくりをめざす闘いである。その闘いの過程で行方不明になり、不在にされてしまった女性の数は日本女性の比ではなく、移動した距離の長さや範囲の広さも比べようがない。植民地の歴史には無限の「14人」がいることを銘記すべきだろう。
全編で取り上げられた14人の女性のうち、長寿だった人は4人だけで、あとはすべて植民地統治下で死んでいるか、解放直後に死んでいる。また、寿命をまっとうしたとはいえ、鄭靖和のように夫の最期すら不明なままの政治的離別、南北分断と粛正、戦争、避難、潜伏などそれぞれが困難な人生を生きた。晩年ですら平穏に過ごせない人生であり、寿命を全うすることのない人生。有為な人材があまりにも多く失われたし、いまも失われつつある。
本書は、植民地主義のもとで人権を求めて闘った女性たちへの「紙碑」である。と同時にその個別の魂を読者との対話を通して蘇生させ、普遍的な記憶へと繋ぐことを願うものである。
*1 1896~1948。朝鮮最初の女性西洋画家。外交官の夫についてのヨーロッパ滞在中に婚外恋愛をし、それが発覚して離婚する。近年は、男女の性的平等を訴える離婚後の発言などで家父長制に刃向かったフェミニストとして評価されるようになった。
【参考文献】
⬥金庚一『李載裕とその時代:1930年代ソウルの革命的労働運動 』同時代社、2006年
⬥鄭靖和『長江日記―ある女性独立運動家の回想録』明石書店、2020年
⬥宋連玉『脱帝国のフェミニズムを求めて』有志舎、2009年
●訂正とお詫び●
右のあとがきのうち太字部分は、編集部の校正ミスにより、書籍では掲載されている位置が誤っており、また抜けている語句もあります。ここに訂正し、著者の宋連玉様、読者の皆様には深くお詫び申し上げます。
訂正の詳細は次のようになります。書籍をお買い求めいただいた方は、ご覧ください。
①
・252頁1~2行目の「韓国社会が監獄だと実感したこともあったが、私たち在日朝鮮人が南北分断の政治的いけにえになることを拒みたかったためである」がなくなり、3行目から始まります。
・右記の文章の正しい位置は、「留学して5年目の~」から始まる段落の最後です。正しい文章は次のようになります。
正:国家権力の恐ろしさ、韓国社会全体が監獄だと実感したこともあったが、私たち在日朝鮮人が南北分断の政治的いけにえになることを拒みたかったためである。
②
・253頁2段落目8行目「民族主義とは」の前に「金マリアの」が入ります。
正:しかし金マリアの民族主義とは民族解放を目標に掲げた反帝国主義思想であり、その隊列に参与する女性は植民地権力の究極の暴力である性暴力にもひるまない覚悟が求められる。
③
・257頁の脚注。
誤:外交官の夫についてヨーロッパ滞在中に
正:外交官の夫についてのヨーロッパ滞在中に
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